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イランギャルのヘジャブがずれ上がってきてる件 その1


昔は外国に行くとすごく緊張した。自分が普段暮らす環境とあまりにも違う世界がそこにあったからだ。ましてや、見知らぬ人たちに向かってカメラを構えるという行為は心臓が飛び出るほどドキドキした。


けれども、世界を取り巻く環境は変わった。特にインターネットが登場してからは激変した。世界の人たちが同じ価値観を共有するようになった。流行が同時性を持つようになった。標高3千メートルの中国の山の頂でケータイから音楽を流して女の子たちが歌っている。チベットの若い僧侶が休み時間に目にも留まらぬ速さでメールを打っている。バザールのストリートミュージシャンの傍らで人々は自分の携帯メールに没頭している。世界の風景は画一化してきている。つまらなくなったかって?いやいや、僕には非常に喜ばしいことだ。
何より、ものごとを「一」から説明する必要がなくなった。いきなり「五」くらいから話に入って行ける。「フェイスブックやってる?」「メアド教えて」「俺のスマホがさぁ」と切り出してもだいたい話は通じる。「フェイスブックとは?」「メールとは?」「スマホとは?」を説明する必要はもはや世界中どこにいってもないのだ。
一方、僕自身も変わった。歳をとって多少図々しくなった。経験を積んで知らない土地でもすんなりと撮影に入ってゆけるようになった。世界中どこへ行っても自分の撮影スタイルは変えない。被写体への接し方も同じ。副作用がひとつ。写真がパターン化してくることだ。実はかなり悩んでいる。それはまた別の機会に話すことにしよう。


イランについても僕はまったく普段どおりだった。いつもと同じように写真を撮ろうと思っていた。日本にいると悪いウワサばかりが飛び込んでくる。「イランは危険だ」「自由に人の写真なんぞ撮れない」んなこたぁないっしょ(笑)
実際にイランに来てみると僕の予想通り、なんの変哲も無い日常が広がっている。いつものようにシャッターを切り始める。すると徐々に新らしい発見も出てくる。例えば「非常に厳格なイスラム教徒の国」というイメージがあったけど、人々の信心の度合いはまあまあ普通だということ。もっと熱心に信心しているイスラム教国を僕はいくつも知っている。
ただ、イランと言う国は「社会の規律」が厳しいようだ。イスラムの精神に則って政治が行われている国だからまあ、遠まわしには「宗教戒律が厳しい国」ということになるのかな。どこにでもありそうな日常の中で、時たまピリリとしたものを感じるのは多分そのせいだ。


2013年12月記



今日の一枚
” シタール奏者 ” イラン・ヤズド 2013年




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