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何の見返りも求めない その2


「イラン人はすごく親切だ」というのは本当だろうか?
期待に胸膨らませてテヘランに到着した初日、地下鉄の駅で路線図を見ていると若い男女4人組に声を掛けられた。「どこに行こうとしてるんですか?」「長距離バスターミナルに切符を買いに行きたいんですけど・・・」すると、彼らは何事か話してカップル2組にわかれ、そのうちの一組が僕の案内を申し出た。おそらく帰る方向が同じで途中まで付き合ってくれるのだろう。僕はその程度に思っていた。彼女の方は女性専用車両(イランは大抵男女別)にも乗らずわざわざ満員の通常車両に一緒に乗ってくれた。途中までだと思っていたのに、なんとふたりは最寄り駅で降りてターミナルの中まで案内してくれる。
「ここです。どこのバス会社の切符買うのかわからないので、あとはご自由に(笑)」「十分です。どもありがとう」と僕。そして、ふたりは人ごみの中に消えて行く。え、なにこれ。すっごい爽やか。当然、何かでっかいオチがあるものだと警戒してたのに。


別の日別の町で僕は路線バスに乗る。運賃がわからず前席の男性に聞くと、僕を制して自分のICカードで運賃を支払ってくれた。彼に教えてもらったバス停で降り、ホテルの場所を地図で調べていると、今度は通りがかりの青年が声を掛けてくる。「どこかお探しですか?」「はあ、このホテルを探してるんですが」「僕もわからないので、誰かに聞いてみましょう」と青年は僕のバッグを肩にかけて歩き出す。「あっ、いいです。バッグは自分で持ちますから」という僕を制して彼はスタスタと歩く、途中2、3人の人に道を聞きながら、ある建物の前に到着。「ここですよ。では」うわっ、すごい好感度。「バッグ担いだまま走り去るんじゃないか」って疑っていた自分が情けなくなってきた。


そして「イラン人の好意を信用してみようかな」と決めたあとは、まあ出てくる出てくる親切の嵐。言葉ができなくて地下鉄の切符売り場で困っていると言えば、回数券を差し出される。道を歩けば家に招かれる。どうぞ我が家に泊まって行ってください、と言われる。家にお邪魔して終バスに乗り遅れれば、乗合いタクシーの運転手に掛け合ってくれて運賃まで払ってくれた。そして最後に「これ以上は要求されても払っちゃダメだよ。さようなら」と手を振った。また、ある年配の旅行者は僕にこう話した。車の多い街の道路で横断するのを戸惑っていたら、見知らぬ人が手を引いて横断させてくれたと。イランなら十分考えられることだ。


何の見返りもないのに、彼らはなぜここまで献身的になれるのだろうか?僕が外国人だろうか?いや、たぶん違う。街角にはいたるところに募金箱が設置され、母親と散歩に来たちいさな女の子が小遣いの小銭を入れていた。経済制裁の中、人々の生活だって苦しいはずである。イスラム社会は相互扶助の社会。「貧しい人、困ってる人には分け与える」という精神だから人に親切にされる機会は比較的多い。でも、イランは別格だ。これは小さなころからの家庭のしつけか、教育の賜物か?僕はイランの小学校の授業を覗いてみたくなった。当然「道徳」は正式教科になっているんでしょうな。


地方を10日ほど周り僕はテヘランに戻った。「ニホンジンデスカ?コンニチハ」街角で頻繁に声を掛けられる。イラン、特にテヘランには日本に出稼ぎに行ったことのある人が多いのだ。彼らのひとりは「日本人は親切だったよ」と当時を振り返った。ん?それは本当ですか?日本がそれ以後大きく変わってしまったのか?それとも、僕の心が曇って日本人の良心が見えなくなったのか?
いずれにせよ、この旅では「人間愛」ってやつを考えさせられた。イラン人は多分「行き倒れかけた僕」を助けてくれるだろう。でもそれ以上に、自分自身が何の見返りも求めない愛情をひとに与えてあげるということが大切なんだね。帰国すると数日間はなんだか大らかな気持ちになり、人に親切にしたくなった。でも、気がつけばいつもの利己的な日本人にすっかり戻っているんだよなぁ(悲)


2013年11月記



今日の一枚
” 夕暮れのドライブ ” イラン・マハン 2013年




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