le poissonrouge cafe








福島


福島県双葉町の海岸は背後に松林をたたえた静かな海辺だった。
一帯は2011年の津波と福島第一原発事故で被災し避難区域になった。僕はこの原発周辺の町々に何度か遊びに行ったことがある。もちろん事故よりもずっと昔の話だ。大学を卒業して関東や東北に散り散りになってしまった友人たちの集合場所としては、富岡町、楢葉町、双葉町といった福島の浜通りは絶好の立地だった。もうひとつ、浜通りが僕らにとって好都合だったのは公共のキャンプ場が良く整備されていたからだ。連休でもそれほど混んでいなくて、なおかつ設備が整い、安く、さらに、山奥ではなく買出しにもそこそこ便利であった。


なぜ、さして人口も多くない海辺の町々が整ったレクリエーション施設をもつのか、高齢化が進む町々に真新しい競技場や室内プールが建つのか、僕たちはその理由にも薄々気づいていた。原発の交付金であろう。彼のキャンプ場では夕刻、利用者のミーティングが開かれ、利用上の注意のあとで管理者が「当施設は3億3千万円をかけて建設されました」と自慢げに話していたのを思い出す。付近の家々もまた新しく大きな民家が多かった。真新しい車が置かれていた。実際に住民から「原発の補助金のおかげでよい生活ができる」という話を聞いたのはそれから何年か後のことだ。


交付金には一体どういう意味があったのだろうか?危険なものを近くに置くための迷惑料?万が一の事故が起こったときの保険?しかし、国や東電は「まずもって重大な原発事故は起こらない」と言っていたではないか?
ところが、地震によって原発はいとも簡単に壊れ、付近は高濃度の放射能に汚染され、多くの人たちが被爆し、精神的にダメージを受け、家を失い、生活を失った。原発の交付金というのは本来こういう時のために蓄えられているべきではなかったのか?「でも、使ってしまったよ全部。安全神話を真に受けて」
いやいや、住民とて原発誘致は先代が決めたことであり、当代は漫然とそれを踏襲していたのかもしれない。そして僕たちもまた、整備されたレジャー施設で羽を伸ばし、休日を過ごしていた。福島で作った電気を享受していた。原発建設の見返りとして、住民たちは少しぐらい良い暮らしをしていてもいいのではないかと考えていた。



けれども、あの原発事故の日から僕たちの認識は変わった。原発というものは安全とは程遠く、ひとたび事故が起これば広大な国土が放射能で汚染される。どんな技術力をもってしても放射性元素の半減期は変えられない。除染されても放射性物質は移動するだけだ。あるものは処分場に移送される。あるものは地下水に染み込みやがて海に流れ出る。僕が震災後に世界のあちらこちらで話した人たちは、津波の被害以上に福島の増え続ける汚染水の地球環境への悪影響を心配をしていた。「本当はコントロールできていないんでしょ?」ある国で聞かれた。その通り、コントロールなんかできていない。


福島では今でも毎日400トンの汚染水が増え続けている。台風が過ぎ去った先日、1、2号機海側の観測用井戸からとしては過去最高濃度のセシウム(1リットルあたり25万1千ベクレル)およびトリチウム(同15万ベクレル)、ベータ線を出すストロンチウムなどは780 万ベクレル検出されたと東京電力から発表があった。海側で配管溝もあるために海に流出している可能性は十分ある。ところが、日本の新聞やテレビはもはや”この程度の”ニュースは全く報道しなくなった。こうして僕たち日本人は完全にクリーンかどうか解らない魚を食べ、野菜を食べ続けている。事故後しばらくは放射能検査の数値が発表されていたのでそれを信じて食品を選んでいた。やがて、基準値以下になった食品が増えたのか検査値は発表されなくなった。最初はなるべく被曝しないようにと考えたが諦めた。自分があの原発事故の日からどのくらい被曝したのか今となっては知る術も無い。


震災後に長引く避難生活の中で体調が悪化し亡くなる震災関連死者数が、震災の死者数を上回ったそうだ。日本では未だに多くの人たちが仮の住まいで暮らしている。そういった事実を世界に伝えずに、あたかも事故は収束したかのように、事態は完全にコントロールされているかのように、あの震災から完全に立ち直ったかのように見せる。つまらぬ虚勢を張っても仕方がないのに。現実に目を向けて問題を解決しないというのは日本人の悪い癖。事物を矮小化して、隠そうとする。「大丈夫だ」と虚勢を張る。



福島第一原発の問題はまるで人形劇のようだ。政府の右手には「東京電力」という人形が、一方左手には「原子力規制委員会」という人形がはまっている。原発事故が起こり観客(国民)の批判は東京電力という企業に集中する。それに対して原子力規制委員会という組織が政府によって作られ、福島の事故に対する検証や新たな安全基準を作成することになった。さて、両者が独立性を保っていれば福島の事故処理はもう少しまともな方向に動いただろう。しかし、東京電力は民間企業であるにもかかわらず破たん処理されずに国有化された。一方の「原子力規制委員会」も現政権の肝いりで組織され、新しい安全基準を作り再稼動に向けてGOサインを出そうとしている。


東電を国有化せずに破たん処理させていれば、福島の事故に関する責任や国民の怒りは直接政府に向いただろう。安全神話を語り原発を推進してきたのは現与党なのだから。一方、もし原子力規制委員会が独立性を保った機関だったら、果たして早々に安全確認を終了させ、再稼動に対してGOサインを出しただろうか。
ところが、右手の人形は国民の恨みつらみを一手に引き受け悪役になり、左手の人形は公平な審判を装う。しかし、この人形は誰の手についているのかということを僕たちはよく考えなくてはいけない。おそらくその「黒子」は他人のようなふりでほくそ笑んでいるだろう。すべては、東京電力の過失であり、規制委員会は安全調査の末に再稼動OKの判断を下している。だから国内の原発を再稼動しさらには日本の原発技術を新興国に輸出しよう。
未だに大量の汚染水を出している原発をコントロールできていると偽ったり、原発技術を売り込むという行為は余りにも国際社会に対して不誠実なんじゃなかろうか。一歩踏み込んで言ってしまえば倫理観すら疑われる。



原発を再稼動させたい政府が、その理由として当初挙げていたのが「動かさないと電力が足りなくなる」という理屈だった。震災直後は原発運転停止によって電力需給が逼迫すということで、計画停電なるものが実施され、僕たちはずいぶん不便な思いをした。けれども、3年半後の現在国内の原発はすべて止まっているにもかかわらず、不自由なく電気は使えている。僕はいくつかの国で電力不足による停電というのを経験した。街灯が点かないせいで道路にあいた大穴に落ちそうになったり冷蔵庫が動かないために腐った肉に当たって死にそうになったりした。しかし、生まれて50年。驚くべきことに僕は日本で電力不足による停電というのを一度も経験したことがない。もちろんこの間の震災を含めてだ。


そう考えると、あの震災は日本の電力需給の本当のリミットを知る千載一遇のチャンスだったのかもしれない。どれくらい電力を使ったら東京のブレーカーが落ちるのか試してみるべきだった。限界を知るということは人間にとって非常に重要なことだ。しかし、僕たちは毎日大本営発表のように出される計画停電スケジュールに従い、我慢をして暗く暑い電車に乗り、商店は営業時間を極端に切り詰めたのだ。結局、あの時本当に電力が逼迫していたのか、それとも原発を推進する意見を導く誘導だったのか今となってはわからない。ここもまた放射能汚染と同じでぼんやりと濁されてしまっている。


あれから3年半が経ち。原発を再稼動させたい政府はまた別の理由をつけてくる。原発の不足電力を補う為に輸入する石油の値段が貿易収支を圧迫している。それにより電気代も値上げしなければならないと。もちろん、政府も悪魔ではない。円安誘導によって大企業の決算を好転させ景気をよくし、原発再稼動によってエネルギーコストの低減をはかり電気代も安くするつもりなのかもしれない。しかし、それでは2011年3月11日以前と何ら変わらないではないか。僕たちはあの日、大きなダメ出しを食らった。未曾有の大災害と原発事故に見舞われた国が、そこから何も学ばず、まるで何事も無かったように以前と同じような産業構造と経済政策、箱物行政やエネルギー政策を目指して本当に良いのだろうか。



久しぶりに福島を訪れた。白河からいわきへと続く高速道を走る。無料区間になったにもかかわらずほとんど車が走っていない真新しい道路は緩やかにあぶくまの緑の中を蛇行した。福島の自然は以前と全く変わらないように思える。高速を降りると植林された山肌の木々に夕陽が当たった。その背景に、地元住民にとっては通り過ぎて行くだけの高圧線が見える。街中に入ると原発の近くを通る道路には「通行止め」のロードサインが目につくようになり、少しだけ現実に引き戻される。しかし数日後、その通行止が解除されたというニュースが流れる。変わらぬ現実を置き去りにして、何もかもが無かったことにされて行く。


2014年10月記



今日の一枚
” 高圧線 ” 日本・福島県 2014年







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