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アンタッチャブルなもの


「ミスター?今晩、礼拝がありますが一緒に行きますか?」「ええ、もちろん。でも、夜なんですか?」「はい」
サモアでは日曜日の朝、人々が教会に出向く。できたら一緒に行きたいということをバンガローの女主人に伝えておいたのだが、声がかかったのは午後で礼拝は夕方だと言う。


そして今、僕は地元の人達と一緒に小さなホールのパイプ椅子に座っている。女主人に連れられてやってきたのは村の大きな教会ではなく、近所の小さな寄り合い所のような建物だった。入り口の看板に「リビングストーン・エバンジェリズム修道院」とあったから福音派だろうか?
教会に着くなり女主人は「私は後におりますのでゲストの方は前へどうぞ」と僕に前列の椅子を勧めた。


さて、厳かなミサがいつ始まるのかと僕は待っていたのだが、ちょっと様子が違う。楽器が並べられ、マイクスタンドが立てられ、ドレスで着飾ったバンドのメンバーが準備をしている。突然ゴスペルの演奏が始まり、人々が立ち上がって踊り始めた。あれよあれよと言う間に僕も踊りの波に飲み込まれた。うひょ、なんだか楽しいな~。でもこれ、礼拝なんですか?


ひとしきり、歌と演奏に合わせて踊った後で正装の男性のスピーチが始まった。神父なのか、はたまた地域を治める村長なのか?スピーチが途切れると同時にさっきまであれほど楽しそうに踊っていた人々が大声で泣き始めた。ゴスペルバンドのメンバーもさっきまで踊り狂っていた最前列のサマードレスの女性も今は泣き崩れている。
一体、何が起こったのか?何かが下りて来たのか?呆気にとられてポカンと口を開けているのは、唯一の外国人である僕と隣の席の小さな子どもだけ。


再びバンドの女性ボーカルが歌い始めると、人々は先程までの号泣がまるで嘘のように安らかな顔で演奏を聞いているではないか。僕はこの感情のジェットコースターに全くついていけずただオロオロするばかり。
すると、スピーチが再開され「今日は日本からお客様が見えてます・・・」おそらくそんなことがサモア語で話され皆の視線が集中する「あっ、どもども」その後、ラストの曲が演奏され礼拝?の幕が下りた。


しばし放心状態の僕に前のドレス姿の女性が振り向き、ものすごい剣幕で質問してきた。「あーた、クリスチャン?」「いえ」「じゃ宗教は何?」「ぶ、仏教徒です」「は?仏教徒ね。それだけ聞いてみたかったの」
「ゴスペルの夕べ」は面白い経験だったが、僕にはその意味がわからず、何となく後味が悪かった。興味本位で参加すべきではなかったような気がする。宗教って信者でない人は触れるべきでないのかもしれない。


今年もクリスマスがやって来る。クリスマス商戦たけなわ。子どもたちはサンタクロースのプレゼントを楽しみにしている。しかし、サンタがトナカイのソリに乗っかってプレゼントを持ってくるなんてのも、多分、本来のクリスマスの意味としては一行も触れられていないんだろうな。商業オリンピックならぬこの商業クリスマスは、宗教的な行事にズケズケと土足で入り込んできて俗物的な手垢で汚しているようなものではないだろうか。宗教はアンタッチャブルなもの。しかし、信者であれ非信者であれ他教徒であれ人々が営んでいるのが社会ならば、宗教は社会とどこかで折り合いをつけて行かなければなるまい。ここのところが非常に難しい。



2019年12月記


今日の一枚
” ゴスペルの夕べ ” サモア・マニノア 2019年




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