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最後に空襲を受けた町


今年は戦後70年ということで戦争について深く考えさせられた夏だった。著名人の戦争体験談もテレビやラジオなどでよく耳にした。印象深かったのは小説家の森村誠一さんの体験談。森村さんの故郷は埼玉県の熊谷市。僕のホームタウンの近所ということもあり体験がリアルに伝わってきた。熊谷市は日本で一番最後に空襲を受けた街。昭和20年8月14日の夜、玉音放送の前夜のこと。熊谷が大規模な空襲に会ったのは、ゼロ戦を作っていた群馬県太田市の中島飛行機(富士重工などの前進)への部品供給地だったためだそうだ。


その夜、上空に姿を現した米軍のB-29爆撃機は熊谷市中心部のみならず周辺地域にまで焼夷弾と爆弾を雨のように降らせた。防空演習の「バケツリレー」など到底やる暇もなく、町はたちまち火の海になった。
森村さん一家は炎の海に囲まれながらも大通りを辿って逃げ、危うく難を逃れたという。翌日、焼け野原を自宅のあった場所に戻る途中、「星川」という川の水面にたくさんの遺体が折り重なっていたのを見たそうだ。星川は熊谷の中心部を流れる小さな川で今も街の景観に華を添えている。今の風景からは俄かに想像し難い。結局、その晩の空襲で一万数千人が被災した。「あと1日降伏が早ければ熊谷空襲はなかったかも」と考えるとなんともやるせない気持ちになる。


そういえば、幼少のころ親や祖父母から熊谷空襲の様子を聞いたことがあったなあ。同市からは数キロ離れているとはいえ、隣の町が真っ赤に燃え尽きてゆく様子を祖父たちはどんな気持ちで見たんだろう。熊谷には戦後、進駐軍のキャンプができた。その米兵たちがわが、町にも姿を見せるようなったらしくその話も聞かされた。空襲も米軍キャンプもなんだか遠い街の話のような気がしていたけれど、実は戦争ってこんなにすぐそばで行われたものだったんだな。僕はそのことを長い間忘れていた。


昔ニューヨークのとある美術館の職員の方と知り合った。僕が日本人だとわかると彼は、自分が従軍していて日本に長らくいたことがあるのだと話した。戦争で負傷して、なんと熊谷の病院に入院していたのだそうだ。「米軍の兵士が熊谷で負傷?」なんとなくかみ合わないなと思ったら朝鮮戦争での出来事なのだそうだ。彼は熊谷の米軍キャンプに所属していたのかもしれない。いろいろな人間の歴史が複雑に絡み合って、しかし戦争はどの国の人の心にも大きな傷を残してきたんだな。


僕たち日本人でさえ、一代、二代世代を遡れば戦争を実体験している。おそらく、世界的にみても過去100年戦争も内戦もなく平和に暮らせている人たちはほとんど居ないだろう。そんな中、僕らが過去70年間平和に暮らせているのは特筆すべきことなのかもしれない。ある人はそれは平和憲法の賜物であるといい、ある人は米軍の傘のおかげだという。けれども、一番の歯止めになってきたのは、戦争体験者たちの辛い思い出と平和への願望かもしれないね。その語り部が居なくなったら、僕たちはどうやって戦争の悲惨さを想像すればよいのだろうか。



2015年8月記



今日の一枚
” 星川 ” 日本・埼玉県 2015年




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