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九龍城


一冊の写真集がある「City of Darkness 九龍城探訪~魔窟で暮らす人々」グレッグ・ジラードとイアン・ランボット撮影(日本版は2004年刊)。九龍城(九龍城塞)とはかつて香港に存在した高層スラム群だ。ビルが無計画に建て増しされて行きやがて一塊の巨大な迷宮になった。(迷宮といっても厳密にはひとつひとつのビルは独立していたようだ。香港の古いビルの常で例えばA棟の2階からB棟の2階には直接行けず、一度1階まで降りて隣に行くという仕組み)
通路はゴミに溢れ、天上の配水管から水が漏れ、常に火災と崩落の危険にさらされていた巨大なスラムは1993年に取り壊された。住民たちは政府から幾ばくかの補償金を貰い立ち退いた。
とり壊しの話が上がってから、2人の写真家は住民のポートレートを撮りインタビューをし「九龍城の生活」を刻銘に記録する作業に入った。九龍城住民をこれほど詳しく記録した写真集は他にはないのではなかろうか。なにしろ観光客はもちろん周辺の香港人でも中に入るのをはばかられるような場所だったのだから。


僕たちの年代が九龍城を知っているか知らないかの境目なのかもしれない。1990年ごろ、取り壊しが取りざたされているころ日本のマスコミはこの魔窟をこぞって取り上げた。啓徳空港(旧空港)に着陸する寸前に眼下に見える朽ち果てたコンクリートの塊と屋上に乱立するアンテナは、おそらく香港旅行を語る上で一度は話のネタになったに違いない。
周りではさまざまな都市伝説が囁かれた。城内には犬肉を食わせてくれる店がある。中に入ったら最後迷って出られなくなる。身包みを剥がされてしまう。捕まって篭に入れられ外国に売り飛ばされてしまう・・・等々。行動力と好奇心のある者は実際に九龍城の外観を見に行った。ガイドをつけて浅部まで入ったなんて話も聞いたことがある。僕自身はといえば聞き手に徹していたけれど(笑)


しかし、この本を読むと自分が多分に脚色の入った九龍城のウワサを鵜呑みにしていたこと、九龍城の歴史について無知だったということが解かってくる。
確かに50~60年代こそ犬肉店、賭博、売春、麻薬中毒患者がはびこっていたが、70年代以降の城内は堅気の仕事をもつ住民がほとんど。無許可ではあったが工場も商店も、幼稚園も教会も歯科医も自警団も、コミュニティーを形成するのに必要なものは全て場内にあった。九龍城では生産や経済活動がきちんと行われおり、この巨大なブラックボックスで生産されたコストの安いプラスチックのおもちゃやゴルフボールや魚肉ソーセージは外の世界でごく普通に流通していたのだそうだ。


九龍城の歴史は意外に古くて、英国の香港占領に対して1843年に中国がここに出先機関を置いたことに始まる。その後、英国と中国がここの領有権を争い。本土から人が流れ込み住み着き、立ち退きを拒み。城壁ができ。城壁が壊され。バラックがビル群になり、粗末なコンクリートの傾いたビルを隣のビルが支え、支えられ。80年代後半には住民の数は3万5000人に膨れあがった。戦時中は日本軍の侵攻によって住民は辛い思いをさせられた。結局、九龍城は中国からも英国からも治外法権となり空白地帯になった。住民たちはいわばその隙間を終の棲家として生活して貧しいながらも平穏に暮らしていた。時に助け合う、いわば相互的な扶助のシステムもあった。
1993年、九龍城は日陰の存在のまま、ひっそりと100年の歴史の幕を下ろした。今や香港市民でも実在の九龍城を知る人は少数派。やがて消しゴムで消されるように歴史からも記憶からも消えて行くのだろう。


僕が初めて香港を訪れたのは2006年のことだ。九龍城はとっくの昔に取り壊され跡地は公園になっていた。この話に関係して、せめて公園の写真だけでもと思ったのだが、結局ストックの中から探し出せなかった。そこで現在の香港のマンションの写真を添付した。悪しからず。
現代の建築技術からすれば当然「マンションが傾いて隣の建物に寄りかかる」なんてことはないはずだが、ご近所さんとの持ちつ持たれつの関係もまた無くなった。



2015年10月記



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