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公園論


歩き疲れると僕はしばしば公園に立ち寄った。ベンチに腰を下ろすと草木のにおいがした。通りの騒音から隔絶された都会のサンクチュアリの中で、それでも夏の公園は人々の笑い声と活気に満ちていた。となりのベンチに腰掛けたグループ。年齢は中学生ぐらいだったろうか?写真を撮らせてもらった。悪ふざけをする男子を尻目に女の子だけが「すっ」と顔の向きを変えたのが印象的。女の子というのは中学生でも自分が一番綺麗に見える顔の角度というのを知っているのかもしれない。


数あるパリの公園の中で、とりわけ僕が好きだったのは19区にあるビュット・ショーモン公園だ。山の斜面に作られているから地形の変化に富んでいて、上の方からは遠く街の中心部まで見渡せた。自然の造形を利用したつり橋や切り立った岩山が池に取り囲まれている風景はどこか東洋的で山水画のような趣さえあった。

パリには有名なブローニュの森やヴァンセンヌの森のほかにもこうした美しい公園がたくさんある。そして公園はカフェと同じように重要なコミュニケーションの場だ。パリの公園は生きている。備え付けのコンクリート製の卓球台で子供たちが遊んでいる。老人と若者が混じってペタンクという球技に興じている。恋人たちがベンチで愛を語らっている。植え込みはきれいに刈り込まれ、清掃員たちがゴミ箱のゴミを集めてまわる。子供たちを見守るガーディアンたちの詰め所がある。たとえ子供でも迷惑になる行為にはきちんと注意を与える大人がいる。以前は問題になっていたペットの連れ込みと糞の問題もペット専用の広場を作ることで解消されてきているようだ。

けれども、僕は後で気がついた。パリは世界の都市の中でも最も公園に恵まれた街のひとつなのだ。ロンドン、ベルリン、マドリード、リスボン・・・ヨーロッパの他の都市では、ひと休みする公園を見つけられないことが多かった。これは文化的な背景も影響しているのだろう。イギリスでは家の庭が、ドイツでは教会の庭が、スペインやポルトガルでは広場があるいは公園の代わりをしてきたのかもしれない。


そう考えると、例えば日本は公園の数という点ではむしろ恵まれた国なのかもしれない。但し、僕が思うに日本の公園は死んでいる。恐ろしいほどひと気がない。少子化だからだろうか、子供の姿をあまり見かけない。看板があって過剰なまでの決まりごとが延々と書かれてある。それからゴミ箱がない。これは大問題だ。家庭ごみを捨てられるのがいやだとか、保安上の問題だとか理由をつけるのだろうが、ハッキリ言ってしまえば地方自治体の完全な怠慢だ。パブリックスペースにゴミ箱を置かないという方針自体が間違っている。ゴミ箱を置いて清掃員を雇ったらどうだろうか?ガーディアンをおいて子供たちが安心して遊べる公園を作ったらどうだろうか?樹木の手入れをする人たちを雇ったらどうだろうか?あるいはそこに雇用が生まれるかもしれないのに。そういうところにお金を使わないで、日本の地方自治体はどこにお金を使っているのだろうか?有料で使用手続きの面倒なサッカー場やドーム型運動場の整備だろうか?

雑草だらけの人気のない小さな公園を見るたびに心が沈む。都会のオアシスであるべき公園が、日本ではなんとなく陰湿な空白地帯になっているような気がする。「だったら無い方がいいかな」とさえ思ってしまう。
予算を削るだけなら誰にだってできる。人々の生活に最低限の潤いを持たせるために市も多少の出費を惜しまない。この辺がパリ市と日本の都市とのいわば格の違いかなと思う。パリの公園に行って人々の顔を見てみればいい。その結果は一目瞭然だ。


2006年7月記



今日の一枚
” 公園のポートレイト ” フランス・パリ 2001年


残念ながらキミはボツだ、しかし・・・




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