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葬列の過ぎぬ間に


シチリア島のタオルミナは、イオニア海を望む高台に開ける南イタリアきってのリゾートだ。まるで富士山のように左右対称の美しい姿を持つ活火山、エトナ山を正面に望み、眼下には遠くカターニャの街の方角に弧を描いてゆく海岸線が見下ろせる。

さて、そのタオルミナに滞在して何日目だったろうか?ある朝、僕は朝食のパンを買うために宿を出たのだ。石畳の目抜き通りを歩き、ちょうど広場の前に差し掛かったときだ。隣り合ったカフェの前にそれぞれの店主らしき男が出て、何やら激しく口論している。しかし、イタリアではそういった風景を頻繁に見かけていたせいか、僕はむしろ「朝食のパニーニが売り切れていないだろうか」ということの方が気になった。
パン屋からの帰り道、僕が再びそこを通りかかった時、ふたりの口論は止まるどころか一段とそのボルテージを増していた。まあ、これもイタリア人にはありがちな展開だ。

午後、再び通りを歩く。すると、前方に口論するふたりの姿が・・・まだ、続いている。最初に目撃してからかれこれ3時間だ。
その後、僕は近くの山の上にある『空中庭園』のような集落まで歩き、夕方3時ごろタオルミナに戻ってきた。広場のベンチに腰掛けて通りを見て僕は目を疑った。ふたりがまだ激しく口論していたからだ。「いや、そうじゃなくて」「いやいや、それは全然違う」という感じでお互い全否定を繰り返す。原因はいったい何なのだろう?それにしても、彼らは7時間も口論しているのだ。尋常ではない。

しかし、イタリア人は想像以上につわものだった。夜9時、夕食に行くため広場の前を通る。なにしろ小さな町の目抜き通りだからそこを通らないとどこにも行けないのだ。「ああ、まだやっている『マラソン口論』を。しかも語調は全く衰えていない」二人の横を通り過ぎる幸せそうな家族連れ、カップル、それぞれの店のテラスで寛ぐ客、そんなのには一切お構いなしで、ふたりは相手を論破することに全身全霊を傾けている様子だ。

近所のレストランで日本人の大学教授と知り合いしばし話し込んでしまった。午後11時過ぎに僕は恐る恐る広場の階段を駆け上った。「まだ口論が続いていたらどうしよう」という不安はいつしか「どうか続いていてください」という無責任な期待に変わりつつあった。
しかし、残念ながら、そこに店主たちの姿はなかった。はたして12時間の口論の末どちらかが「ごめん俺が悪かった」と言ったのだろうか。おそらく、それはないだろう。


僕の知る限り、二人の口論が一度だけ途切れた瞬間があった。それは、タオルミナの華やかな目抜き通りを葬列が静かに通り過ぎた時だ。花輪、神父、霊柩車・・・狂ったようなシチリアの紺碧の下、隊列が山の頂にある白い十字架に向かって静かに進んで行く。午後の陽射しをいっぱいに浴びたカフェの前で二人の男は無言のまま葬列を眺めていた。

「刹那的に生きる」とはつまりこういうことを言うのだろうか。僕はふとそんなことを思った。


2006年4月記



今日の一枚
” 葬列 ” イタリア・シチリア島・タオルミナ 1994年


 イタリア人の食卓  ウクライナ人は笑わない その1

 ポスト・スクリプト ~ それから

刹那的に生きる。日本語で書くとなんとなくネガティブな感じがする。衝動的に何かをやらかしてしまうとか、一時の感情で相手を傷つけてしまうとか・・・しかし「葬列の過ぎぬ間に」の英文を書いたときに気づいた。「刹那的に生きる」は英訳すると「Living in every single moment(一瞬一瞬に生きる)」なんだ。すると言葉のイメージはポジティブになり、俄然、輝きを増してくる。

この言葉を何かの拍子に思い出した。ひいきのサッカークラブが得点を先行され、ついに追いつけなくて負けるという試合を何度も見せられたときだったか。試合開始直後の1分と終了間際の1分は本来同じ長さのはず。サッカーでは1分あれば得点は入る。ところが人間は過去の時間を引きずる、未来の時間を気にする。すると現在の「確固たる1分」がゆらぎ始める。気持ちはあせるばかり。同じことは例えば受験や人生についても当てはまりそうだ。

しかし、刹那を生きる人の中では、今の1分間は過去とは何の関わりも持たない1分間である。そして、この1分間のあとには全く新しい白紙の1分がやってくる。だからといって、1分1分を全力で生きるということじゃない。そんなことをしたら疲れ果ててしまう。単純に「独立した1分を意識する」ということだ。
やがて、新しい1分の訪れない時がくる。試合終了のホイッスルが吹かれ、試験終了のチャイムは鳴り、人生の幕は閉じる。しかし、それが自分では変えようもないことならば、持ち時間を気にしすぎて焦るのは無駄なことだ。結局のところ、あれこれ先々まで計画を立てている人より、刹那的に生きている人の方が良い結果がもたらされ、「突然の幕引き」が訪れた時によほど充実感が持てるのではないだろうか。

常に無反省、無責任でいるとそれはそれで社会生活に支障をきたしそうだが、都合よくイタリア人を気取るくらいならバチは当たるまい。

2014年1月記




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