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自分であることの証 その3


2日後にパスポートの再発給を受けアムステルダムに戻った。クレジットカードが再発行され、僕は徐々に社会的な「身分」を取り戻していく。しかし、盗まれた荷物は一向に戻ってくる気配がない。警察に何度も足を運んだ。「はたして僕は無事ニューヨークに帰ることができるのだろうか?航空券は再発券してもらえるのだろうか?」次から次へと不安が生まれてくる。そして、その嫌な予感は的中していった。アムステルダム-NY便のパキスタン航空のカウンターに行ったら「再発券はできない。もう一度買い直してくれ」と言われた。もちろん食い下がったが、こちらの事情は全く理解してもらえない。最後はほとんど「怒鳴り合い」になり話し合いは決裂した。


自暴自棄になってコーヒーショップで煙を吸い、バーで酒を飲んだ。「ふざけやがって!・・・」このままいくとNY-東京のチケットの方もダメかもしれない。おそらく、日本への帰国便のチケットを持っていないと米国にも入れないだろう。頭の中にNYの部屋が浮かぶ。3人のルームメイトとシェアしているスタッテンアイランドの家。今、僕の部屋には鍵がかかっている。締め切った部屋はジリジリと夏の日に焼かれ、静かに埃が積もって行くのだ。「ああ」僕はもう一度深くため息をついて煙を吸い込んだ。


数日後、NY-東京便の航空会社、デルタ航空に問い合わせてみることにした。確かにここでNY-東京間のチケットが再発券されたとしても、NYまでのチケットは買い直せねばならないだろう。それでも、すべて失うよりは遥かにマシだ。祈るような想いでオフィスに入る。応対してくれた担当者に事件の一部始終を話し、再発券が可能かどうか恐る恐るたずねた。
すると、返ってきた答えは予想もしないものだった。「あなたはオサダさんですか?あれ、確か電話のメモがあったな。ちょっと待ってく れますか?」「ああ、ありました。これだこれだ。荷物がね、見つかりましたよ」「え!今何と言いました?」自分の聞き間違えかと思わず聞き返してしまった。「警察から連絡がありました。ショルダーバッグが見つかったそうです。ウチの航空券が入っていたので電話してきたんですね。パスポートも無事ですよ。詳しいことは遺失物集積所に行って聞いてください。今、住所を書きますから」ああ、こんなことがあるのだ。神様はまだ僕を見捨てていなかった。「ありがとう」僕は住所の書かれたメモを握り締めてオフィスを飛び出した。


集積所はアムステルダムの郊外にあった。カウンターで事情を話すと係員はやがて見覚えのあるバッグを持って戻ってきた。郊外のバス停に捨てられていたそうだ。「アムステル駅で荷物を盗んだグループはそのまま路線バスに乗り、必要なものだけ取って残りを捨てたのでしょうね」と彼は話した。すぐに中身を確認した。入っていたのはパスポートと航空券だけ。やはり、現金、カード、写真機材といった類はすべて持っていかれていた。
思えば1枚も写真を残すことができず、ただ神経をすり減らしただけの2週間だった。やれやれ。しかし、これでニューヨークに帰れるのだ。よかった。本当によかった。もう、こんな旅はさっさと終わりにしたい。はやくウチへ帰りたい。仲間の顔が見たい。



その夏、僕の部屋の扉は再び開きニューヨークでの生活が戻った。でも、以前とは何かが違う。それは僕がこんな想いにとりつかれたからだろう。それは「自分が自分である証というのは一体何だろうか?」という疑問だ。パスポートもカードも、そしてカメラまでも失った時、僕は自分がこの世に存在している「証」のすべてを失った。一時的にとはいえ「自分が誰でもなくなった」時のあの不安感。しかし同時に、すべての「身分証明」を失った時に感じたあの開放感は何だったのだろうか?考えてみれば「身分証明書」とはひどく屈辱的な名前ではないか。そんな陳腐な「証」はいらない。僕が本当に欲しいのはもっと本質的なもの。「自分が自分である証」だ。歯磨き粉の絞り方、靴のかかとの擦り減り方、石鹸の使い方・・・まるで焦燥感に駆られるように、そして些細なものにでも僕は「自分の証」を探すようになった。


2006年6月記



今日の一枚
” 左足 ” アメリカ・ニューヨーク州・ニューヨーク 1995年




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