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タイトロープ・ウォーカー


かつて110階建てのニューヨーク、ワールドトレードセンターの2本のビルの間にワイヤーを引き、綱渡りをしたパフォーマーがいた。男の名前はフィリップ・プティ。仲間と共に完成間もないのツインタワー南棟に忍び込んだ彼は、なんと、弓矢で一本の釣り糸を北棟に向けて射った。北棟にいる仲間はその釣り糸を手繰る。すると糸は徐々に太くなり、最後には250kgの鋼鉄のワイヤーがツインタワーの間に張られるというわけだ。なんと巧妙な計画だろう。
そして1974年8月7日朝7時15分、彼は地上417mのワイヤーの上にその一歩を踏み出した。25kgにもなる長いバランス棒を持ち、天空のワイヤーの上を8往復し、さらには寝そべり、45分間に渡ってパフォーマンスを行った。このパフォーマンスのドキュメントは映画「マン・オン・ワイヤー」(2008)に詳しい。


コラム・マッキャンの小説「Let The Great World Spin」もその場面から始まる。しかし、こちらは綱渡りのパフォーマンスのみを描いたドキュメンタリーではない。物語は1970年代のアメリカの、NYの世相を描いている。
サウスブロンクスの娼婦たち、子供をベトナム戦争で失ったパークサイドの婦人、公僕として働く裁判官、タグと呼ばれるメッセージアートを地下鉄の線路に描く少年、電話番号をハッキングする若者たちのグループ、暴力、麻薬、ベトナム戦争、ウォーターゲート・・・そうした70年代の風俗がてんこ盛りになっている。やや詰め込み過ぎとも思えるが、当時のニューヨークを知らない僕は十分楽しめた。


作中ニューヨークのあちらこちらで起こる登場人物たちのドラマは互いに関係しあっている。彼らの共通体験、物語のジョイント役になっているのがフィリップ・プティのパフォーマンスというわけだ。一見とっぴな行動に見える彼の綱渡りは糸の上でまわるコマのように冷静で安定し、実は周りの世界が激動の中でグルグルとまわっているということに読者は気づく。そう、彼を中心にグルグルと1974年のニューヨークが回っている。混沌とした日々の中で人々はまるでエアポケットにはまったようにプティのパフォーマンスを見つめる。
小説によればプティに課せられた刑罰は1フロアにつき1セントの罰金のみ。110階だから合計1ドル10セントだったそうだ。テナントの入居が伸び悩んでいたWTCにとって彼のパフォーマンスは必ずしもマイナスではなかった、というのが理由らしい。


ご存知のように、そのWTCは2001年2機の航空機の激突によって跡形もなく崩れ去った。ニューヨークのシンボルだったツインタワーは劇的なパフォーマンスによって幕をあけ、劇的な事件によって歴史の幕を閉じた。
僕はその界隈に住んだことがある、2つの劇的な出来事の真ん中あたりのわずか1年ほどだ。ビルの8階の僕のアパートからはツインタワーの頭が2本を仰ぎ見ることができた。特に何もないWTCにとっては平和な一年で、唯一の事件は北棟のアンテナに照明がついたことぐらいだった。もし、自分があのアパートに生涯暮らしていたとしたら、と考える。おそらく僕は部屋の窓から天空を歩く不思議な人間と、ビルに激突する旅客機を目にしたことだろう。


時代は変わり、NYやアメリカの抱える問題も変わったようだ。公園を占拠した若者たちのニュースも伝わってくる今日この頃。ツインタワーもプティのパフォーマンスも遠い昔の話になった。
今、ニューヨーカーたちにとってふと何かを考えさせてくれるブレない「コマの軸」は存在するのだろうか?あるいは、そんなもの自体がすでに時代遅れなのか・・・


2012年3月記



今日の一枚
” 早春 ” アメリカ・ニューヨーク 1992年




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